2012年7月19日木曜日

マイアミ備忘録-9



マイアミ備忘録-9

デザイナーという職業を目指してからずっと心にちくりと刺さっている刺がある。
その刺は、他のクリエイターが仕事で着手したデザインや写真を「作品」と呼ぶ時に激しく痛む。

それをつぶやく人々には特段深い意味は無いのかもしれないが、
僕の中ではクライアントからお金をもらい、クライアントの決めたルールの中で制作するもの、
それは決して「作品」などでは無いという思いが、かたくなにあるのだ。
ルールの構築権と最終ジャッジ権のない人物が制作した創作物など「作品」であるはずが無いという考えだ。

僕の仕事におけるクリエイティブフリーダムの大きさはかなりのものだと全クライアントに感謝しているが、
しかしそれは決して100%には届かない。
届いてはいけないのだとも思う。

クライアントがある限り、どんなに純度の高いクリエイティブに到達してもそれは「作品」ではない。
これは僕が人生で抱えてしまった素数のひとつ。

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長い間自分の「作品」を渇望していた。
だれよりも自分自身がそれを欲していた。

制作者自身の時間と空間とお金を使ってある造形を創造し、客が自由意志でそれにお金を払い、その造形を手に入れる。
それが「作品」なのだと思う。
「お金」の登場する順序と動機がとても重要なのだ。

海外のアートフェアで感じる東京とは違う「何か」の一つは、「作品」と「お金」の順序と距離ではないだろうか。
彼ら(客)は数百ドル、時には数千ドルという「お金」と「作品」を、敬意をもって引き換える。

無名でも稚拙でも地味でも小さくてもカラフルでも巨大でも、卓越した技術でも、彼ら(客)には関係ない。
自分たちが愛せる作品を見つけたら即座にスマートにお金を媒介にして関係を持つ。
その覚悟が彼ら(客)にはある。
そのことが根本的に違う「何か」に大きく寄与していると感じる。

「作品」への畏敬の念、ひとつの作品が空間を変えてしまうパワーを持っている事を知っている人達の金銭感覚。
このことも根本的に違う「何か」に大きく寄与していると感じる。

「作品」の多様性。
「作品」を楽しむ術。
「作品」に付けられたプライス。

それらはひとつの状態を指し示す。

それは「自由」。

古今東西の人々が歴史の中で渇望しつづける「自由」

それを僕は東京ではなく海外のアートフェアで強く感じたのだと思う。

アートは自由でなければならない。
人々はアートに「自由」を求める。
日常で削り取られてしまった「自由」を補完する為に。

自分自身の人生がこれ以上他人のルールに犯されない為に。


日本のアートシーンをとやかく言う資格はないが、自由を渇望する意志だけが、
固まってしまいそうな重い足を次の一歩に導いてくれる。